三宅章介 X 藤本秀樹 / 1973 -> 2017

2017.2.28 tue- 3.19 sun

京都嵯峨芸術大学附属ギャラリー

Galerie16_DM

私は大学闘争が失速しはじめた、1970年に京都市立芸術大学美術学部工芸科デザイン専攻に入学しました。入学して間もなく、京都市美術館で開催された「第10回日本国際美術展(東京ビエンナーレ’70)」に衝撃を受けました。そこには絵画も彫刻もありませんでした。全共闘運動は「大学の存在意義」を問うものでしたが、中原佑介氏が総コミッショナーを務めた、この展覧会はまさしく「美術の意味」を根底から揺さぶるものでした。
「多くの仕事は、絵画や彫刻のように、作品が閉ざされた体系をかたちづくっているという感じをほとんどあたえることがない。あたかも、現実世界のある断片、ある過程が切り取られて置かれたままであるかのように映るのである。」(同展カタログより引用)。
内面世界の表出としての表現ではなく、生きた現実(人間と物質)を露わにする手段としてのコンセプチュアル・アートに強く惹かれました。芸大改革の一環として生まれた構想設計教室に入り浸るようになり、写真やシルクスクリーンの技法を学びました。生の物質と向き合う「もの派」の禅問答のような議論になじめなかった私は、「もの」と人を繋ぐメディアに関心が向かいました。思いつきで、新聞紙の上にシルクスクリーンで新聞紙を印刷してみたところ、林剛先生の目にとまり、著書のなかで触れていただきました。これを契機に、情報とそれを担うメディアにおける記号作用をパラドキシカルに示す試みに憑かれました。
これら‘70年代の作品は美術雑誌や新聞の展評欄で、それなりに評価されましたが、80年代に入ると突然、美術の潮流が反転、新表現主義が勃興します。
そんななか80年代半ば、パーソナルコンピュータに出会い、プログラミングに没頭します。コンピュータ・グラフィックスは物質性、作者の手の跡を完全に排除できる表現手段として、私の体質にあっていました。やがて、インターネットの普及により、いながらにして世界中のさまざまな画像をダウンロードできるようになり、いきあたりばったりに入手した画像データを何の脈絡もなくコラージュし、画像処理することに夢中になりました。当時、デジタルプリントが版画として認知され始めたこともあり、版画コンクールや版画専門誌のコンペで受賞したりしました。
2001年、京都嵯峨芸術大学発足にともないメディアアート領域の実習を担当することになり、後には「メディア技術史」の講義を持ちました。先行研究、資料収集をとおして、あらためて「メディアとは人間の感覚機能と運動機能の拡張」(マクルーハン)であり、人と現実世界との関わり、人と人の関係、社会の仕組さえも変えてしまう力を秘めていることに気づきました。思えば、’70年以来、私は「コンテンツ」より、むしろ「メディア」そのものにこだわりをもってきました。「もの派」が物質や環境への作為を最小限にとどめることで、この世界の実像を露わにしようとしたように、コンテンツを可能な限りミニマムにすることで、メディアそのものから発せられるメッセージを露わにできないかと考えています。

会場風景

 

 

再び8つの部分からなる立方体
1975制作作品を再制作。木曽檜のレンガ状ブロック8つを積み上げて立方体を作る過程をムーピー撮影、1200mm角立方体にプロジェクションマッピングする。

Grafting 接ぎ木
フラクタルアルゴリズムで生成した木に観葉植物の葉を接ぎ木する
気温と湿度により枝ぶりが変わり、葉は日々成長する。

Olympia 民族の祭典
レニ・リーフェンシュタールによる1936年ベルリンオリンピックの記録映画「Olympia」をWebカメラで撮影、顔認証システムにより、選手たちの顔にSNOWキャラクタを重ねる。

ファラオのつぶやき
Twitterのつぶやきをヒエログリフでモニタに表示し、ガラス球を通して壁面に投影する。